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2011年09月30日

廣瀬 忠子さん

廣瀬 忠子さん


芦屋商工会のイベントで、廣瀬忠子さんのお話を伺いました。


昭和2年生まれ 芦屋で生まれ芦屋で育ちました。
海があり 山があり 川があり その間に 美しい街並みがある。
私はこの芦屋が大好きなんです・・・

と、始まりました。


私の母が90歳のころ ちょっとボケましてね。
「ご飯食べたかしら」なんていうのに
ピアノでイタリーのオペラの曲を弾いてあげると
イタリー語でしっかり全部歌ったんですよ。
若いころに覚えたことは忘れないんですね。

私の若いころは戦争中でね、歌といえば軍歌ですよ。
私ボケたら、軍歌歌うんでしょうかね 嫌ですね~(笑)



子供のころ、旗を振って兵隊さんを見送ったこと
家から遠い学校に行かすのは心配だということで、
芦屋女学校に通うことになったこと。
スクールバスで通う優雅な学校だったけれど
戦争が激しくなると、木炭バスが坂道を上がらずみんなでバスを降りて押した。
そしたら、エンジンがかかり、バスに飛び乗って・・・
でも、そのバスもいずれ走らなくなり、坂道を歩いて通った。

そして、学徒出陣。
ひ弱な女学生は、裁縫や事務などの仕事へ行ったけれど
私は、「いい体格だ」と板金に回されました。
鉄をたたくんですよ。叩いて、穴開けて、ボルトで留めて。

でも なんでもやってみるものです。
後年 年末に家の車を少しへこませてしまったんです。
修理工場に連絡すると年末だから忙しいので、年明けに行くと断られました。
お正月をこの凹んだ車で過ごすのは嫌だとおもい、トランクを開けてのぞいてみたら
「これならできる!」とかまぼこの板を持ってきて、
少しずつ少しずつたたいて、色を塗って、きれいに修理ができた。
これもあの板金の経験のおかげ!

若いうちは何でも経験するものですね。

年明けに修理屋さんが来たけれど、もう直してある。
私が直したのよ。「奥さん15万円得しましたね」と言われました(笑)


女学校を卒業して3カ月で結婚。
男性が少なかったからね。大東亜戦争のまっただ中。
主人は軍人。大阪城の近くの官舎に住んでおりました。
忘れもしない8月14日。日本が負けたことはわかっていたんです。
あす陛下のお言葉がある。その前日!
アメリカは日本の持っている、銃弾や火薬を爆破しておこうと
大阪城の東側にある軍需工場を攻撃。
2時間余りの とんでもない空襲があったんですよ。

大阪城の西側の官舎にいた私は18歳、防空壕で震えて泣いていました。
次の一発で死ぬんじゃないか!
この空襲で主人が死んだんじゃないか!と思ってね。
主人は大阪城にいた、空襲がおわり外へ出てみると
大阪城の後ろが真っ赤に空まで炎で覆われていました。
しばらくすると 黒い雨が降ってきました。

なぜか黒いんですね。

主人は死んだと思い 泣きました。
主人も私が死んだと思ったんですね。
泣いていたら、馬の足音が・・・・主人が心配してやってきてくれたんです。
生きてたんですね。しがみついて泣きました。
その時ばかりは、思いっきり泣きましたよ。



終戦になったら、主人は米軍に連れて行かれました。
私は生後3日の子供を抱いて、途方にくれました。心配で心配で。
私の母乳はショックで出なくなったんです。
1カ月後 主人は帰って来ました。
その瞬間 私の母乳はあふれ出たんですよ。
安心したんですね。こころとからだはつながっているんですね。



しばらくすると、戦地から復員兵が帰ってきました。
下関から電車で帰ってくるんです。
ある日、芦屋の駅で40分間停車すると聞いた母は、兵隊さんにお茶を出そう!と
婦人部のみなさんに声をかけ、それぞれ一握りのお茶の葉と、
ガスなんてありませんから マキを1本ずつ持ち寄り
日本茶をつくり差し上げたんです。

そしたら、兵隊さんがみんな中国から持ってきたお茶をその場で捨てたんです。
「下関からずーと電車に乗ってきたけれど、ここで初めてお茶をいただいた。
 どこの駅でもお茶なんて出してくれなかった。ここが初めてだ。」
と大変喜んでくださったんです。

そしたら、この話を新聞社が記事にし、話題になった。
その記事を読んだ米軍が今度は母を連れて行った。
戦犯にお茶を飲ませるなんて!

ところが 母は度胸が据わっていてアメリカ兵にこう言ったそうです
「あなた方の国のことは知らないけれど、
 私たちの日本では戦争をして疲れて帰ってきた兵隊さんに
 お疲れ様でしたと、お茶を出す文化があるんです。
 あなた方がアメリカの自宅に帰ったらあなた方のお母様も同じことをするのではないですか」
と、啖呵を切ったそうです。




ある日、JRの大阪と三宮の間に1分間快速電車を停めるという噂が流れました。
西宮か芦屋になるだろうということでした。
西宮の方が駅が大きかったので、西宮が有力でした
ところが、西宮は無関心だったんです。
そこで母は、私の手を引いて、婦人会の人たちと、
大鉄局に日参したんです。今のヨドバシカメラのところですね。
「どうぞ 芦屋駅に停めてください」
それで、芦屋に快速が停まることになりました。
これが今の芦屋の発展に役立ったと思っています。



芦屋にはパチンコ屋さんが無いでしょう。
今は条例で、できないようになっていますが
昔は、学校から何キロはパチンコ屋を作らないように運動したんですよ。


あら 私 用意してきたお話、全然違うこと話してますわ(笑)


先日大阪でパーティがありました。外国の方も大勢おられました。
私は足が悪いので、お料理も少しだけとり椅子に腰かけて、いただいてたんです。
そしたら 外国の男性は 順々に「お料理をお持ちしましょう コーヒーをお持ちしましょう」と
持ってきてくださるのですが、日本の男性は誰一人そんなことはして下さらない。
私の連れのものは友達を見つけて、そっちへ行ってしまうし…
エレベータでも外国の男性は、扉を開けて待っていて下さる。

日本の男性はテレがあるんでしょうが、これからは照れていてはだめですよね。

私 パーティで外国の方に接することが多いんですが
日本人は日本人同士でお話されてますでしょ
私は 英語はできませんが、外国の方とお話します。
メニューの裏に「木」と書いて Tree もう一つ木を増やすと「林」
これでForest  「女」という字は・・・・
というふうに、書いて説明してあげると みんなとても喜んで
お隣のテーブルからも、メニューの紙をもってきて 書いてくれとやってくるんですよ
みなさん もっと海外の方とコミュニケーションとっていただきたいです。


電車にもよく乗りますが、シルバーシートに若い男性が4人
ダ~と足を広げて座って、4人とも携帯電話をしているんです。
彼女の写真を大きくしたり小さくしたり…私 見えているんですよね。(笑)

その前は、一つだけ空いてた椅子に座ろうと思ったんですが
足が悪いでしょ、のろのろ歩いているうちに若い女性が先に座っちゃった。
それを見ていた他のお客さんが気の毒そうに私をみて、それから寝たふりなさいました。

どうなっているんでしょうね
最近のエチケットは。


親から教えられたことは、忘れませんよね。
靴を脱いだらそろえる!
お友達のおうちを尋ねたら、ご主人が来られるまで、椅子には座らない
最近は 上座下座もわからない。
今はエチケットがおかしくなっていますよね。


私 最近芦屋市立美術館の館長になりましてね
スタッフの方も、総入れ替えになって・・・
なんで私がこの年で館長なんか仰せつかるのかと思いながら
せっかくだから いろいろとさせていただいてますが
おかげさまで 以前の30倍の来館数になりました。

え、あら もう お時間ですか?・・・・



ということで 司会者が入りお話は終わりました
とても楽しかったです。
足が悪いと言いながら40分ずっと立って話されていました。

私のうろ覚えで、書かせていただきました。
詳細は間違っているところがあると思いますが、お許しください。
忘れないうちに、書いておこうと思いましたので。
素敵なお話でしたのでシェアさせていただきたいと思いました。


タグ :廣瀬 忠子

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Posted by 高岸院長 at 00:28│Comments(2)ココロ
この記事へのコメント
今日。芦屋商工会事務局長 藤井清さんの祝賀会に参加しました。
祝辞会にて、廣瀬忠子さんが御挨拶されました。
心に残るお話と、にじみ出るお人柄に触れ本当によかったと思っています。
始めてのお出会いでしたので、どんな方かとネットで見せていただきました。
ありがとうございました。
Posted by 和島 一吉 at 2011年10月02日 14:26
和島 一吉様

コメントありがとうございます。
今日、会われたとのこと・・・廣瀬さんお忙しいですね~。
和島さんともいつかどこかで お会いすると思います。
楽しみにしております。
Posted by 高岸高岸 at 2011年10月02日 20:45
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